起源


一個の人間

国語の授業で武者小路実篤の詩『一個の人間』を読んだ。

感動、勇気、光、励まし・・・

とても一言では言い尽くせない感情が押し寄せ、

人は心を大切にすると幸せになれるんだと、強く思った。

同時に「心とは?」と大きな問いを与えてもくれ、この詩は師となった。

わたしはその答えをずっと描き続けている。

『一個の人間』は、私自身のテーマであり、作品のタイトルでもある。

自分は一個の人間でありたい。

誰にも利用されない

誰にも頭をさげない

一個の人間でありたい。

他人を利用したり

他人をいびつにしたりしない

そのかわり自分もいびつにされない

一個の人間でありたい。

 

自分のもっとも深い泉から

もっとも新鮮な生命の泉をくみとる

一個の人間でありたい。

誰もが見て

これでこそ人間だと思う

一個の人間でありたい。

一個の人間は

一個の人間でいいのではないか

一個の人間。

 

独立人同志が

愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。

それは実に美しいことだ。

だが他人を利用して得をしようするものは

いかに醜いか。

その醜さを本当に知るものが一個の人間。

 

武者小路実篤


未意識

わたしが『未意識』と呼んでいるものは、一般的には無意識と言われるものだ。

脳神経学者 渡邉正峰氏の話では、

人間の行動は無意識の脳活動が先で、それを意識する瞬間は後から遅れてやってくるらしい。

わたしはその無意識の脳活動こそ、感性だと考えるようになった。

意識する前の、脳の小さな電気信号のひとつひとつが感性だとすれば、

それは暗闇の中にチラチラと光る微かな灯りのようだ。

どんなに微かであっても、確かに存在していて、わたしを創っているように思えた。

そんな、確かに存在する感性を「無」意識と言うのには違和感があって、

いつのまにか「未」意識と呼ぶようになっていた。

『未意識』という言葉を手に入れたことで、

わたしはやっと『意識』から解放された。

2023:未意識で描き始めている、作品の描き始めの段階。

礎石

作品をuntitledとして発表していたが、一方でタイトルを付けたいとずっと考えていた。

そのタイトルを探して、わたしの原風景である奈良県明日香村へ出かけた。

古社寺、遺跡、古墳、奇岩、巨石・・・そんな懐かしい風景の中、

本薬師寺跡(もとやくしじあと)にそれは在った。

空き地のような所に、大きな礎石がいくつも。

 

幼い頃にわたしを惹きつけた、この明日香村にある古い時代が放つ独特な雰囲気と、

面白くて怖い不思議なエネルギーは、間違いなく、今のわたしを創っている。

形にこだわって描き続けている理由が、ここに在る。

 

タイトルが『礎石』と決まった。

2012:「在る」礎石_本薬師寺

心は香のように  体は花のように

『心は香のように 体は花のように』は空海の言葉。

弟子の真済(しんぜい)によって性霊集(しょうりょうしゅう)に収められている。

 

それまでわたしは、心というものはそう簡単には変化しない硬いもの。

時間をかけて、自分なりの形になっていくイメージがあった。

いっぽう、空海は、『心は香のように』

その思いもよらない言葉から、

なんとも清々しい風が、心に向かって吹いてきた。

 

石のように悠久の時を経ても確かに在るという心と、

香のように風に吹き消されても脳裏に残る心。

その二つを行き来しながら制作するようになった。

 

そして『体は花のように』

与えられた命を丁寧に生きている花からは、どんな香りがするのだろうか。

一個の人間という自然の在り方を、平安時代の僧に教わった。

本能

鴨居玲の展覧会を観て、とにかく揺さぶられた。

あの感動は、忘れられない。

入り口を入ったその時、

「自分を救う手立てはこれだ!」と感じた。

画家になると決めた瞬間。

 

本当の自分になりたくて描いている。

救われたくて描いているのだから、

「よく見せようとか、こう見せたいとか、こう思われたいとか」

自分に嘘をついてまでする事ではない。

 

40年近く、「描かない」という選択肢が無かった。

地味だけど、これが私の一番のお手柄。

わたしの『本能』が働いたとすれば、この3つ。